8月8日、昨年上演された佐世保市、市民ミュージカル「佐世保ブギウギ」の同窓会に招かれました。
昨年2月、市民100人(出演者とジャズバンド)と、僕が懇意にしている東京のスタッフ達とで、オリジナルミュージカルを創りました。アルカス佐世保の指揮のもと、下は幼稚園から、上は70歳を超すかくしゃくとしたトランぺッターまで集まり、多くの市民の皆さんのご協力を得て出来上がったものです。2日間の公演でしたが、おおいに盛り上がり、又、終演後の評判も上々だったそうです。生まれて初めての市民ミュージカルの演出でしたが、型にとらわれない素直な演技、欲も得もない懸命さは、マッスルミュージカルの初期の舞台と同じ空気感でした。
ちょうどラスベガスで初日を開けた直後に同窓会のお知らせを戴き、都合のついたスタッフとともに出かけました。9日にはアルカス佐世保でのマッスル公演もあり、有り難いことに、その時期に合わせて下さったのです。1年半振りの再会に、子供達はひとまわりもふた周りも大きくなり、年配の方達は益々意気軒昂で、久々に役名で呼び合い、70名の参加者とともに、あっという間に2時間が過ぎてしまいました。
「是非再演を!」「いや又新しい作品を!」と、みんなで創る楽しさ、その達成感を忘れずにいてくれたことが心から嬉しい一夜でした。
9月9日、渋谷マッスルシアターの16時の公演を最後に、マッスルミュージカルの構成、演出、振付から退くことになりました。とはいえ、ラスベガスのサハラシアターでのロングラン公演、12月14日迄のジャパンツアーは、続いていますが。
2001年12月のトライアウトから約6年、30本程、創ったでしょうか。
その間に、メンバーは表現者として大きく育ちました。何よりも嬉しいことです。
6年前の9月、TBSの深夜の番組のスタッフから電話がはいり、舞台とテレビのコラボレーションというところからマッスルは始まりましたが、集められたアスリート達の多くは、舞台の上手(かみて)下手(しもて)もわからない、又、制作側はテレビのスタッフですから舞台のことはまるでわからない。僕は無我夢中で引っ張り、短期間の稽古で彼等は初めて舞台に立ち、お客様の割れんばかりの拍手を聞いた時、メンバーもスタッフも皆、涙を流しました。2001年、12月9日、マッスルミュージカルの誕生した瞬間です。
日本のオリジナル作品を海外へ持っていくのが、当時の僕の夢でしたから、言葉を使わずに肉体だけで表現することにこだわっていました。中村一座、ナカムラワールドなど、自分自身で舞台に立ち、お客様の反応をみながら創り貯めた引き出しを一挙開放し、身体能力に長けた若者達の肉体を借り、とにかく創り続けました。個々の持つ技をどういう状況でみせるか、緊張の次には笑いをと、休む間もなくアイディアを出し、それを形にしていく日々でした。僕はこれを「修行」と位置づけて励みましたが、メンバーも舞台スタッフもよくついてきてくれたと感謝しています。
ここ数年は、メンバーも「次は何をやるの?」と目を輝かせ、一緒にいたずらをする子供のような、やんちゃな笑顔で稽古場に臨んでくれました。
そんなメンバーの笑顔とお客様の笑顔が、僕を支え続けてくれました。決してお金では買えない出演者と演出家の信頼関係から、僕なりのマッスルを創り上げられたと思っています。
テレビ番組での放送、宣伝との相乗効果で、マッスルも巨大化してきました。僭越ながらこれまでは、中村流レヴュー形式、笑いあり、涙あり、感動ありのマッスルでしたが、今後は形を変えていかざるをえないでしょう。
今回の件で、沢山のメール、お手紙、FAXを頂戴しました。すべての方に返事を書きたいと頑張っておりますが、先ずはこの場を借りてお礼を申し上げます。皆様のお気持ちは、決して無にしませんのでご安心下さい。
9月9日は、たくさんのお花やカードを戴いて、定年退職の親父か、俺は?という気分にもなりましたが、終演後、満席のお客様のスタンディングオベーション、繰り返される「リョージコール」と盛大な拍手は、創り手としての最高の栄誉です。どんな賞をもらうより嬉しく感動しました。
ようやく自由な時間もできたので、ひらめ倶楽部の集いや、こまいぬのライブも開催する予定ですし、来年の新たな活動のため動き始めております。ファンの皆様、関係者の皆様の、いつも変わらぬご支援には深く感謝しております。今後の中村に乞うご期待!
中村龍史
2007.09.24更新